ユートピアとディストピアの違いとは

ユートピアとディストピアの違いとは

ユートピア(utopiaとディストピア(dystopia)という二つの言葉がある。ユートピアとは、日本語で「理想郷」と訳され、中世の思想家トマス・モアの主著『ユートピア』に由来する。現実には存在しない、理想的な世界であり、ギリシア語の「どこにもない(ou)場所(topos)」」と「良い(eu)場所(topos)」をもとに、トマス・モアが造った言葉とされる。

このユートピアの対義語として、ディストピアという言葉がある。ディストピアとは、SF的なユートピア空間がもたらす「負の側面」が強調された、非人間的世界を意味する。イギリス人作家のオルダス・ハクスリーが、1932年に発表した小説『すばらしい新世界』は、ディストピア小説の代表作として広く知られ、小説の冒頭には、ロシアの哲学者であるニコライ・ベルジャーエフのユートピア及びディストピアに関する一節を引用した題辞エピグラフが載っている。

ユートピアはかつて考えられていたよりもずっと実現可能なように思える。われわれは今、従来とはまったく異なる憂慮すべき問題に直面しているのだ。ユートピアが決定的に実現してしまうのをどう避けるかという問題に……。

ユートピアは実現可能である。社会はユートピアに向かって進んでいる。おそらく今、新しい時代が始まろうとしているのだろう。知識人や教養ある階層が、ユートピアの実現を避け、より“完璧”でない、もっと自由な、非ユートピア的社会に戻る方法を夢想する時代が。(ニコライ・ベルジャーエフ)

 – オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』

ユートピアは、決して空想の世界のものにとどまらずに、次第に現実のものに近づいていっている。そして、我々は、ユートピア実現を模索する時代から、ユートピアの実現を避けようとする、あるいは、非ユートピア世界に戻る方法を夢見る、新しい時代に入っていくだろう、とある。

ハクスリーの小説の世界は、確かにユートピア空間が広がっている。生まれる前から人々の階級は決まり、胎児の頃には「条件付け」が施され、幼児の時代には洗脳教育を受けるなど、常に自分の境遇に不満を持たないように仕向けられる(そのため、自分の境遇を嘆くようなこともない)。個々人の感情を乱すことになるので、親子や夫婦、恋人関係なども存在しない。恋愛が原因の悲しみがない世界となっている。宗教や自然愛は禁止され、その代わり、関係性を問わない性的自由が推奨される。孤独な時間を持つことや、読書も禁じられ、心が動揺することはほとんどなく、また不愉快なことが起きたときも安心であるように、副作用なしで精神を高揚させ、幸福感に浸ることができる薬「ソーマ」が国家から配給される。ある一面から見れば、誰もが幸福で安定したユートピアが実現された「すばらしい新世界」である。

しかし、一方で、読んでいる側からすると、この完成されたユートピアは、ディストピアの世界にも映る。ある『すばらしい新世界』に関する小論のなかでは、この作品世界のユートピア性とディストピア性の違いについて、次のように解説されている。

新世界は多くの人間が人類の未来社会として希望を抱いてきた社会である。しかしながら(……)新世界人は幸福になる為に人間でなくなっているのである。新世界は科学によって厳密に条件づけられたアリの社会のような有機的・合理的な全体主義国家であり、その中で各個人は、安定し幸福ではあるが、運命づけられた社会的機能を単に機械的に実行しているだけである。

人間は機械化され、科学に隷属し、人間としての動物的・精神的・考える側面が完全に犠牲にされている。人間はロボットと同じで精神は死滅し、肉体のみが勝手に動いているのである。

   – 三浦良邦『「すばらしい新世界」の二つの社会について』

全てが管理され、安定した、幸福な世界。悲しみも動揺も不安もない、不幸のない「新世界」には、「人間」も存在しない。「精神は死滅し、肉体のみが勝手に動いている」。ユートピアと言うと、「エデンの園」を思い浮かべるが、神ではなく人類が造り出した機械的なユートピア世界は、そのままディストピアと表裏一体と言えるかもしれない。

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