人間らしさとは何か

人間らしさとは何か

人間らしさ、とは何か、ということを最近よく考える。似たような表現に、「人としてどうか」という言い回しもあるが、この二つは意味のニュアンスに違いがある。

人としてどうか、というときは、倫理的な側面が強調される。大切な友人に嘘をつくのは「人としてどうか」と言えば、その前提として、「人とはかくあるべし」という理性(あるいは情緒)によって構築された、(時代によって変動する)ある程度一般的な「人」の理想像が存在し、その理想像から外れることを「人としてどうか」と指摘する。

一方、「人間らしい」と言うと、もう少し懐が深く、人間の負の側面、光と影でいう影の側面まで許容する。仮に、「人としてどうか」と批判される性格や振る舞いも、「それも人間らしいと言えば人間らしい」となる場合がある。そう考えると、「人間らしさ」というのは、弱さのようなものに寛容な概念なのかもしれない。

人としてどうか、ということの類似表現としては、「人でなし」という言葉もある。「人でなし」は、「人情・恩義をわきまえない、人間とも思えないような人」を意味する。世間知らずやマナー違反をする、または無法者、というよりも、情の部分のほうが大きいように思える。細かく言えば、「人間らしさ」というのも、情の面のほうが多くを占めるのだと思う。人間臭さ、と言い換えてもいいかもしれない。

ところで、テクノロジーの進歩とともに、この「人間らしさ」は、徐々に次元の違う問題に発展していく可能性が大いにある。超管理社会のなかで監視され、評価されながら生きることは、人間らしい暮らし、と言えるだろうか。遺伝子を自由に組み替え、見た目もよく、才能豊かな「人間デザイナーベビー」を造ったら、それは、人間らしい、と言えるだろうか。遺体を冷凍保存し、復活させることができるような死のない世界は、人間らしい、と言えるだろうか。

オルダス・ハクスリーのディストピア小説『すばらしい新世界』に登場する人間たちは、人間らしい、だろうか。

新世界は多くの人間が人類の未来社会として希望を抱いてきた社会である。しかしながら(……)新世界人は幸福になる為に人間でなくなっているのである。

新世界は科学によって厳密に条件づけられたアリの社会のような有機的・合理的な全体主義国家であり、その中で各個人は、安定し幸福ではあるが、運命づけられた社会的機能を単に機械的に実行しているだけである。

人間は機械化され、科学に隷属し、人間としての動物的・精神的・考える側面が完全に犠牲にされている。人間はロボットと同じで精神は死滅し、肉体のみが勝手に動いているのである。  

–  三浦良邦『「すばらしい新世界」の二つの社会について』

今後は、人間らしい、という言葉に、情や弱さ、影、という以外に、自然の側面も重要な要素となっていくのだろう。そして、もしかしたら、「人間」の概念が拡張ないしは移行し、これまで「人間らしい」と思われてきた側面のほうが、「人でなし」になってしまうかもしれない。

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