個人の本性、人間の本性
人間は、心身ともに追い詰められていると、「ちょっとしたこと」が気に障り、感情的になることがある。すぐにキレる、泣く、不安感に襲われるなど、激しい感情に揺り動かされ、ときにいつもと言動が全く異なったものになる。
世の中が刺激や情報で溢れ、神経が疲弊し、心身ともに「ちょっとのこと」でも過敏になっていく。人それぞれの「ちょっとのこと」がある。そして、その人にとっては「ちょっとのこと」ではない。いずれにせよ、もっとほんとうの静けさが必要になってくる。
— 付箋 (@kphots03) April 6, 2022
それは四方八方から(あるいは、最後の一押しによって)押しつぶされた絵具のチューブのようなもので、普段なら隠し持っておくことのできたものが、色々と混在したまま飛び出して「誰か(攻撃性は、自分に向きやすい人もいれば、他者に向きやすい人もいる)」にぶつけられる。この追い詰められた状態で溢れ出したものを、「本性」が見えた、という見方をする場合もある。でも、個人的には、それを「本性」と呼ぶのは、少し可哀想な気もする。
人それぞれで、耐えられる許容量も感受性も違うので、「自分が大丈夫だから、お前も大丈夫に決まっている」ということはないし、誰もが追い詰められれば、同じように「内容物」が溢れ出る。感情として現れない(処理しきれない)場合は、身体的な症状として出る場合もある。
もちろん、両者は繋がっているので、明確には区分けできないが、精神学者のルートヴィヒ・ビンスワンガーが、「言葉が沈黙すると身体が語りはじめる」と言っているように、言葉にできないほどに許容量を越えると、動悸と不安感に襲われる、緊張で吐き気がする、涙が溢れる、といった、ある種の身体表現を伴った「内容物」の吐露を生じさせる。
この動きの一部分を切り取り、追い詰めて、追い詰めて、ほら、ほら、本性を現したぞ、と囃し立てる。でも、それは「その人の本性」という見方もできるかもしれないが、どちらかと言うと、「人間の本性」ではないかと僕は思う。
本性とは何か。追い詰められた状態で溢れ出るものが本性だろうか、それとも、安心な環境で、体も心もゆっくりと休息が取れ、落ち着いた状態で滲み出るものが本性だろうか。
いずれにせよ、僕たちは、生物として完全に他者や世界と切り離された「独立」の存在ではない。多種多様な菌やウイルスとも日々共生しているし、気圧の変化で頭が痛くなることもあれば、相手の存在の威圧感で体が硬直することもある。同じように、神経疲労から過去のトラウマまで、無数の様々な(一つ一つは微量であるかもしれない)圧で押しつぶされそうになっている。
その結果として飛び出たものを、「個人の本性」「個人の闇」で片付け続けても、きっと全体としての平穏には向かっていかないのではないか、と思う。
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