偽善の息苦しさが苦手な理由

偽善の息苦しさが苦手な理由

最近、「偽善」ということについて考えさせられる。偽善とは、辞書的に言えば、「本心からでなく、うわべをつくろってする善行」のことを意味する。偽善者と言われれば、それはだいぶ悪口だろう。

一方で、ボランティアや寄付などと関連し、ときおり見かける言葉に、「やらない善よりやる偽善」がある。「たとえ偽善的な行為であっても、人のことを批判してばかりで何もしないよりはいい」という意味で、もともとネット掲示板が発祥の言葉のようだ。そんな風に言われると、確かに、その通りかもしれないな、と思う。救われる人がいるかもしれないのだから、偽善の何が悪いのか、という声はもっとものように思える。

しかし、同時に自分のなかに、偽善のはびこる社会に対する違和感や息苦しさも存在する。「偽善者が嫌いだ」とまでははっきり言えなくとも、どこか偽善的行為で溢れる世界は、空気が薄いように思えてくる。

偽善者と近い言葉に、慈善家がある。慈善家とは、困っている人を憐れみ、援助するような利他的な人たちのことを指す。偽善者は決してよい意味ではないが、慈善家は立派な肩書きとして使われている。『もっとも寄付額が多い慈善家ランキング(Forbes)』といった記事を見ると、別にいいんだけど、と思いながらも、一言で言い表せない複雑な感情を抱く。

自分のなかで少し整理してみると、まず、一口に偽善と言っても、本人は真剣に心から行なっているのに、社会的に偽善的行為だと思われやすいことゆえに一括で「偽善」と括られている場合と、その人自身が、様々な思惑のもとで行なっている場合とあるような気もする。

僕は、基本的に前者は偽善だとは思わない。とすると、後者のほうが、偽善と感じやすいのだろうか。様々な思惑とは、たとえば好感度や売名だろうか。その場合、自分が偽善というものに覚える抵抗感の背景には、「見せびらかす」ということがあるのだろうか。結果として好感度狙いや売名になっているだけの場合と、最初から狙っている場合でもだいぶ違う。

関連して、辞書における意味に記されているように、「うわべ」というのも大きいように思う。動機が自分の根っこにないもの。こういったことをしたら「正しい」「優しい」と思われるようなことだから行う、あるいは、「自分」を置き去りにした、世界や環境、人類全体のためという動機による行為。そうではなく、自分のなかにちゃんと根っこがあって、自分を手放さずに自然体で行なっていることなら、それがどれだけ一般的に偽善的だと思われるようなことでも、それは全く気にならないように思う。

たぶん、「全体のため」というのが全面に出されると、内心、「それは結果的に全体のためにならないんじゃないかな」と思っても、その発想は排除され、これが善だ、と押し付けられるような感覚になる、というのもあるのかもしれない。

これこそが「優しさ」だ、と言い換えても、これこそが「思いやり」だ、と言い換えてもいい。価値観が勝手に決められる。僕はそれは優しさとも思いやりとも思わない、という感情の居場所が、少しずつ失われていくような気がしてくる。一人二人、ないしは個人が行なっているぶんにはそれほど気にならないし、救われている人もいるのだから別にいいかな、とも思える。自分も、どこかに偽善が入り込んでいることはきっとある。

ただ、その偽善的な嘘くささが、社会全体に蔓延したり、あまりに大々的に行われると、どうにも苦しくなる。嘘ばっかりで気持ち悪い、という心境になる。偽善の総量の問題なのかもしれない。

それから、「裏表」ということとも関連してくる。表では、善的な行為を押し出しながら、裏では、全く真逆の人間だったとしたら、そういう裏表の激しい落差も、偽善に対する抵抗感に繋がる。とは言え、これも程度問題だろう。表では頑張って好かれるようなよい顔をし、裏では愚痴や不満、多少の悪さをすることも人間臭さで、裏表が完全に一切ないとなったら、それはそれで怖いと思う。

だから、(境界線を示すことは難しいが)この表の善が、あまりにうわべだけで、裏では色々と企んでいたり、悪さをしている、という光と闇のとんでもなく大きな差がある場合、偽善への抵抗感が強く働くのかもしれない。

もう一つ、先ほどの価値観の話と関連して言えば、「あなたはこれをしていない」という強い圧を与えるような空気感も、窮屈さに繋がっているのだろうと思う。僕はそれが善だとは思わないんだよ、優しさだと思わないんだよ、あるいは、別の場所で自分の考える善を、自分のできる範囲で行なっているよ、と思う。

空疎、傲慢さ、押し付け、こういった辺りが、自分にとって偽善が苦手な理由なのかもしれない。

根っこのない、これをやっておけばいいんだろう、ということが蔓延する空疎さ。あなたのために、これを「優しさ」として渡そう、というときの傲慢さ(それは見当違いで、むしろ苦しめていることもある。または利用している場合もある)。偽善的なことが、広がり、定着し、これこそが「善」である、「正しさ」である、「優しさ」である、「思いやり」である、「愛」である、こういう場合に、こういうことをしない人間は、「善」ではない、「正しさ」ではない、「優しさ」がない、「思いやり」がない、と決めつけられるような息苦しさ。

細かく見れば、僕も含めて誰もが偽善的な側面はあるのだと思う。自分が偽善的ではないかということを気にしている人もいるだろうし、だから、「偽善なんて嫌いだ」と言い切ることにも抵抗がある。ただ、同時に、偽善的な空気の「膨張」が、苦しくもなる。

ネットなどによって客観的な眼差しが強化されたことで、閉鎖的な村社会のように、「どう見られるか」という圧がいっそう強くなった気がする。表では、「変な人」に見られてはいけない、「まっとうな人」でなければいけない、「正しい人間」とはこうあるべき、ということを、誰もが実践しようとする。

たとえば、今後、管理社会、監視社会(相互監視社会も含め)が激化する。デジタル管理社会では、やがて自分の人生の足跡が、「履歴」として一纏めにされ、管理される。その行動や言葉、身体データ、生活の記録などをもとに、“模範的な人間”かどうか評価され、その評価によって特典や制限が加えられる、といった中国の社会信用システムのような方向に進んでいくと思う。

偽善的な空気の膨張というものが、どこか、こういった不自然に潔癖な未来を予感させるような気もする。ある程度の裏表、本音と建前はあれども、汚れも弱さも含めて、なるべく自分自身であれる世界でないと、人は根底から引き裂かれてしまうのではないだろうか。

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