教育のデジタル化のデメリットについて

教育のデジタル化のデメリットについて

デジタル教科書の使用は授業時数の2分の1未満ではなければならないという制限が撤廃され、今後はデジタル庁と文科省によって、デジタル教科書の増加が計画されている。

パンデミックを名目に、一気に推し進められる社会のデジタル化(テレワーク、キャッシュレス、オンライン教育)、デジタル庁発足(2021年9月1日)。この辺りは、ショックドクトリン的に利用している側面は大いにあると思う。

ショック・ドクトリンとは、「惨事便乗型資本主義」のこと。

すなわち、「戦争、津波やハリケーンなどの自然災害、政変などの危機につけこんで、あるいはそれを意識的に招いて、人びとがショックと茫然自失から覚める前に過激な経済改革を強行する(岩波書店)」ことを指す。

教科書のデジタル化には、効率化の面でメリットもあるだろうが、一方で、デメリットもあり、たとえば、単純に「目に悪い」という点が挙げられる。

大人でもデジタル機器の画面をずっと見ていたら、自律神経などに様々な影響を与えるだろうし、感受性の豊かな子供の段階なら、なおさら影響が強いのではないだろうか。

すでに、スマホやタブレットの使いすぎで、子供に斜視が増加している、という報告もある。

子どもの黒目が、内側に寄っている状態、「内斜視」と呼ばれます。 今、子どもや若者を中心に「急性内斜視」が問題視されているといいます。…..「デジタルデバイスの使用をやめて1か月くらいで回復する報告が多いですが、1回発症すると元に戻らなくて、手術が必要になったという報告もありますので、気をつけていただきたいと思います(医師)」 – 子どもや若者の「急性内斜視」が問題に 元に戻らなくなり、手術が必要となるケースも(BSS山陰放送)

画面を見ていることによる、脳疲労の問題も指摘されている。うつ症状や注意散漫の子たちの増加も、今後いっそう深刻化してくるだろう。

教育のデジタル化によって、健康面での長期的な影響は相当出てくるのではないかと思っている。そして、そのとき、彼らは「もう後戻りはできない」と言うかもしれないが、大人の都合で、どれだけ後戻りができないと言っても、目を逸らそうとしても、この問題は必ずどこまでも追いかけてくる。

その弊害をよく熟知しているからこそ、テック業界の大物たちも、自分の子供には使用を制限しているのだろう。

イギリスの『ミラー』による2017年4月のインタビューによれば、ゲイツと妻のメリンダは、子どもたちがテクノロジーに触れる機会を厳しく制限していたという。携帯電話は14歳になるまで持たせず、夕食のときにはとりあげていたとゲイツは説明している。「時間を決め、それ以降はスクリーンを見てはいけないとすることも多かった。うちの子たちのケースでは、そのおかげで夜更かしせずに眠ることができた」とゲイツは『ミラー』に話している。

(中略)

アップル創業者のスティーブ・ジョブズも、我が子がテクノロジーに触れる機会を最小限に抑えていた。『ニューヨーク・タイムズ』のニック・ビルトンによれば、ジョブズ家もゲイツ家と同じような環境だったという。

(中略)

ツイッターの共同創業者エバン・ウィリアムズとその妻は「2人の幼い子どもたちには、iPadのかわりに、何百冊もの本がある(もちろん、紙の本だ)。いつでも好きな本を選んで読むことができる」と説明している。ほかにも、多くのテック系著名人が同様のルールを口にしている。 –  ジョブズとゲイツが我が子のテクノロジー使用を厳しく制限した理由|NewsPicks

また、そんなものはデメリットではないと言われるかもしれないが、「教科書へのいたずら書き」も難しくなってくるだろうと思う。

デジタル管理空間は、まさに、そういう「いたずら書き」のような人間の「揺らぎ」を許さない。誰かがいたずら書きのような「余計なこと」をしたら、すぐに警告が出る、管理者に把握される、という仕組みになっていくのではないか。

でも、僕は、「先生に黙ってこっそり」ということそのものに、教育の重要な意義の一つがあるように思う。

加えて、教員側にとっても、教育のデジタル化のデメリットは決して少なくないと思う。

ジャーナリストの堤未果さんの著書『デジタル・ファシズム』のなかで、教育のデジタル化の懸念事項として、教師の多様性が不要になっていく点を挙げている。

問題と答えがパッケージで差し出されるデジタル教科書の普及によって、各々の教師がどうすれば子供たちに勉強に興味を持ってもらえるか、授業が面白くできるか、と試行錯誤するよりも、タブレットを使いこなす技術のほうが求められるようになる。

教師の多様性が必要なくなれば、次は、その数を減らしてもよい、という段階になる。

デジタル庁設立の中枢にいるパソナグループの竹中平蔵氏は、オンライン授業が主流になれば、教員の数は今よりずっと少なくて済むようになると語る。

極端な話、優秀な教師が一人存在し、オンライン授業を行えば、全国の子供たちが液晶画面越しに平等に学ぶことができる。

「究極的には教師は各教科で全国に一人いればよいのです。」

これは『デジタル・ファシズム』のなかで引用される、竹中平蔵氏の言葉である。

確かに、そうなれば経費削減や効率化に繋がるだろうし、教師の当たり外れもなくなり、たった一人の優秀な教師のもとに教わる機会が「平等」に与えられる。

その結果、教師の仕事は教えることではなく、動画の内容を生徒が理解しているかをチェックすることに変わっていく。 – 堤未果『デジタル・ファシズム』

しかし、そもそも、学ぶ、教育する、とは一体どういうことなのだろうか、と考えさせられる。

学ぶというのは、五感はもちろん、人と人との間の摩擦や共鳴も含めてのもので、優秀なデジタル教科書があれば、新しい情報をインストールするように自動でインプットすれば、それがすなわち学びである、というものでもないと思う。

特に子供のうちは、余計にそうなのではないか。

そのうち、教員も必要なくなり、AIによる教育が行われるようになるのかもしれない。

自動教員、自動教育、というエラーの許されない、「遊び」のない機械的な仕組みのなかで、子供たちは次々同じ製品として形作られ、出荷されていくのだろうか。

学校が、あるいは、社会が、頭によって作り上げた「正しい大人」「正しい人間」に関する、監視がよく行き届いた厳密な製造工場になったら、「人間」は壊れてしまうのではないかと思う。

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