常時計画的思考の行く末

常時計画的思考の行く末

常時計画的思考の蔓延。こうなったら、こうなる、という計画的な思考によって、結論を先取りした上で歩み出す。

ある種の(一面的な)俯瞰の視点が、思考の大半を占めるようになる。

特に、インターネットというのは、その思考をいっそう加速させているように思う。

その体感を伴った実例が、スマホによる自分の位置を示しながらのGoogleマップを使った移動ではないかと思う。俯瞰の視点で、今自分がどこにいるか、どの経路で、どこにたどり着くかが、はっきりと可視化されている状態で進む。

これは、住所や紙の地図を頼りに、目の前の実際の光景に注意を向け、照らし合わせながら目的地を探すよりも、だいぶ部分的にしか脳を使っていないような気がする。

子供の頃、部活を通して知り合った、まだ仲良くなったばかりの学校の違う友人が、住所と、大体の目印になる場所だけ紙に書き、僕に渡してくれたことがあった。

後日、その紙を頼りに、別の友人と二人で、彼の家を探した。

田舎町ではあったが、ほどほどに入り組んだ住宅街もあり、紙と、電柱や家々の住所を見比べながら、ちょっとずつ、この辺りではないかと探っていく過程は、とても楽しかった覚えがある。

そして、そのときの視点は、一部とは言え、もう少し地に足のついた「ここ」があった。

もし、あの頃にスマホがあり、Googleマップと位置情報を駆使しながら、目的地までのルートを示され、そっちの世界が現実で、身体をただ指示通りに進めていくだけだったら、恐らくあのときの「楽しさ」という感覚もなかったと思う。

もちろん、利便性は否定しない。分かっていたほうが効率的だ、というのも分かるし、思わぬ悪路に迷い込んでしまわないように、予めちゃんと調べて考える、ということ自体は重要なことだと思う。

一方で、この思考があまりに具現化された世界に長く浸っているうちに、未知の世界に歩み出し、目の前の風景を見ながら判断し、もしかしたら途中で変わるかもしれない目的地に向かって歩んでいく、という生きる喜びの一つを見失ってしまうような気もする。

デジタルの地図のなかに、自分の位置が示され、目的地があり、そのルートが光り、そのルートに沿って自動運転で運ばれる。身体が、ただの運搬物になる。

生と死を結んだ人生も、この思考法で溢れていたら(そして、「結果」が全てという価値観が主流であるなら)、だいぶ耐え難い軽さになっていくのではないだろうか。

こうなって、こうなる、というだけの人生。地図があり、私はこの位置にいて、このルートを辿り、この場所に着く。生まれ、運ばれ、死ぬ、というだけの人生。

だったら、さっさと死のうかな、という気持ちが蔓延していくことも避けられないような気がする。

常時計画的思考の行く末に待っているのは、人生(道中)の形骸化、なのではないだろうか。

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