可視化社会は幸福か

世の中は、可視化社会が進んでいる。この可視化社会が、生命至上主義、健康至上主義と結びつくと、人間が「健康」という軸で見えない鎖に縛られた管理社会となっていく。

コロナウイルスに無症状が多い、というのは、無症状の人まで細かく追いかけ、可視化しようとするからであって、インフルエンザやノロウイルス、従来のコロナウイルスも、無症状が多い。極めて微量のウイルスまで察知し、陽性で万が一誰かにうつしたら問題だ、という「善」の論理から、あらゆる場所で検査をし、「私は絶対に無害です」という証明をしなければいけない世界になっていくのだろうか。

みんなきっと疲れている。自分のことをいつもみんなに知らせてまわらなきゃいけない社会に。自分が健康であること、健康に気を使っていることをみんなに知らせてまわらなきゃいけない社会に。 – 伊藤計劃『ハーモニー』

内閣府は、「超早期に疾患の予測・予防をすることができる社会」実現を目標の一つとして掲げている。「超早期」のためには、徹底した管理社会、すなわち可視化社会が必要となる。

しかし、果たしてその社会は人間にとって幸福なのだろうか。

健康が公権力によって常にチェックされる。これまでは、個人の自由で検査を受けに行っていたのが、今後は、「人間は常に汚く、危ういものであり、常日頃から、エラーがないかチェックし、共有しなければならない」という世界になるかもしれない。

健康を害するような行為は、デジタル監視によって警告を受け、また周囲の目も厳しくなる。「咳」や「呼吸」が、他者を害する(かもしれない)行為とされる。感染経路が、仮に可視化されるようになれば、その人や属性が差別されるようになり、あるいは、「誰々にうつされた」などと他罰的になる。「スーパースプレッダー」という言葉も、無邪気な科学による恐ろしい視点のように思う。

もし、心理的な「体力」も可視化されるようになったら、どんな社会になるだろう。この言葉や振る舞いで傷ついた、ということが、しっかりと可視化される社会。誰もが、誰かを傷つけないように慎重になり、「優しい」世界になるだろうか。

その方法で「優しい」世界になると思うなら、それは、一切誰も傷つけない無垢な言動がある、という信仰ゆえだと思う。誰もが、そういう言動を徹底するようになれば、この世は平和になると信じている。でも、仮に実現したとしても、それは一面的なことに過ぎない。誰かが傷つくかもしれないことはすべきではない世界では、誰も、何もできなくなる。

苦手な言葉

表現の規制も、おそらく厳しくなるだろう。万一、その作品がきっかけで自殺したら、殺人に踏み出したらどうする、という圧が、「善」となるようなら、多くの表現は消えていく。

あるいは、精神面の可視化社会を目指し、心理テストや身体管理、過去の行動監視から、各々の「精神の健全性」を把握され、健全性の高い(とされる)人間だけが、様々な「刺激的作品」にアクセスできるようになるかもしれない。

可視化社会が、健康管理社会と結びつけば、常時、「僕たちは安全です、優しいです、思いやりがあります」という顔をしていなければいけなくなるのではないだろうか。しかし、一見した平和のために、光で満たし、押し込めた闇は、内側に深く、広がっていくことになるだろう。

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