ディストピア的な洗脳教育の方法(『すばらしい新世界』)
発表から100年近くが経つ、オルダス・ハクスリーのディストピア小説『すばらしい新世界』では、人工的な管理世界のなかで、人々が不満を抱かずに暮らし、また誘導するために洗脳教育が施される。
新世界で行われる洗脳の方法としては、たとえば、試験管のなかに入っている胎児の段階で行う「条件付け」によって、生まれる前から条件反射を植えつけられ、自身に与えられた環境や境遇に不満を抱かないように仕向けられる。その後、人工的な手法で生産された幼児たちにも、「ネオパブロフ式条件反射」や「睡眠教育」などが行われる。
ネオパブロフ式条件反射では、保育士が、絵本と花を幼児に与えたあと、大音量の衝撃音と電気ショックを与える、という方法で教育する。より具体的に説明すると、まず鳥や魚や獣が明るい色使いで描かれた絵本が、薔薇を活けた水盤と一緒に並んで置かれる。そして、幼児たちが、喜びの声をきゃっきゃっと上げながら這っていき、薔薇の花や絵本と戯れる様子を確認してから、主任保育士がレバーを押し下げる。その瞬間、サイレンがけたたましく鳴り響き、警報ベルが凄まじい音を立てる。赤ん坊たちは恐怖におののく。さらに、第二のレバーを下げると電気ショックが流れ、痙攣するような狂気に近い泣き叫ぶ声が上がる。この関連付けを繰り返すことで、書物と植物に対する、生涯消えることのない本能的な恐怖心を子供たちに植えつけることができる。
本と騒音、花と電気ショック ─── すでに赤ん坊たちの頭はそういう危険な連想をつくりあげていた。今のと同じか類似の操作を二〇〇回繰り返せば、もう連想は解けない。人が結び合わせたものを、自然は離すことができないのだ(*『新約聖書』 マタイによる福音書 十九章六節「神が結びあわせてくださったものを、人は離してはならない」に由来する一節)。
– オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』
ネオパブロフ式条件反射教育によって、書物と植物に「本能的嫌悪」を抱く大人になることの効果として、生涯、本と植物の「害」から守られる。本は、下層階級にとって不必要で時間の無駄である。一方、薔薇の花など植物に嫌悪を抱かせる理由について、所長は、「高度な経済政策」と説明する。かつては、ガンマ階級やデルタ階級、エプシロン階級といった下層階級まで、花を筆頭に自然一般が好きになるよう条件付けを行なっていた。彼らが、田舎に旅行に行き、交通機関を利用してくれると考えたからだ。しかし、交通機関は利用したものの、他の点では一切経済に貢献しなかった。
サクラソウや自然の景色には重大な欠陥がひとつある、と所長は指摘した。それは無料で愉しめる点だ。自然の愛好は工場に需要をもたらさない。そこで、少なくとも下層階級に関しては自然の愛好をやめさせることにしたのだ。
– オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』
自然は無料で愉しめる。だから、特に下層階級は、「自然を愛さないよう」に洗脳教育を施すのだ。もう一つの方法である睡眠教育は、遠い昔に起きた話がもとで考案された。
あるとき、ポーランドのルーベンという名の少年が眠っているあいだに、うっかり付けっ放しになっていたラジオが偶然ロンドンの放送を受信し、老作家の長い講演が流れた。少年が目を覚ますと、その内容を(意味は分からなかったが)一言一句間違えることなく、諳んじて話すことができた。「かくして睡眠教育の原理が発見されたのだ」と所長は語る。この睡眠教育を、当初は知的学習の手段として利用した。しかし、睡眠教育は理屈を覚えることには不向きで、研究は頓挫した。その後、知的学習ではなく、道徳教育に活用されるようになった。
「最初から道徳教育に使っていればよかったのだ」所長は先頭に立ってドアのほうへ歩いた。生徒たちは必死にノートをとりながらあとを追ってエレベーターに乗りこむ。「道徳教育はいかなる場合でも理屈抜きだからね」
– オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』
睡眠中に延々と言葉を何千、何万と反復するように繰り返し、深層心理に深く浸透させる。睡眠教育で行われるのは、性教育や、自身の階級が最上だと考える認識で、生涯に渡って心理や決定の判断に影響を与える。日よけ窓を締め切った薄暗い共同寝室で、子供たちは静かな寝息を立てて眠り、彼らの枕もとからは囁きのような声が聴こえてくる。
「“デルタの子はみんなカーキ色の服を着ている。ああ、嫌だ、デルタの子たちとは遊びたくない。エプシロンなんてもっとひどい。ものすごく頭が悪くて読み書きもできない。おまけに服の色は黒で、ほんとに嫌な色だ。わたしはベータでほんとうによかった”」
– オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』
一晩に120回、週に3回、30ヶ月続け、終わると次の過程に進む。睡眠教育は、道徳と社会性を教えるのに最良の方法だ、と所長は力説する。
「やがて子供の心はこうした暗示の言葉そのものとなり、暗示の言葉の総体が子供の心となる。子供のうちだけではなく、大人になってからもそうで ─── 一生のあいだこれが続く。判断し、欲求し、決意する心 ─── それがこうした暗示の言葉から成り立っている。その暗示はわれわれが刷り込んだのだ!」所長は勝利感に満ちて、ほとんど叫びあげるように宣言した。
– オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』
以上のような条件反射教育が行われることで、誰もが同じ精神構造を持ち、自身の境遇に満足し、余計なことは考えず、国家に反逆することもなくなる。国民の幸福、国家の安定が保たれることに大きく寄与すると考えられたのだった。