「思う」と「考える」と「感じる」の違いとは
よく文章では、「思う」という動詞が使われる。また、同じ思考を表す言葉として、「考える」という動詞もある。「思う」と「考える」の違いは一体どの辺りにあるのだろうか。
まず、基本的に「思う」という言葉の意味が幅広く、「考える」という意味も一部含んでいる。たとえば、「明日はきっと晴れると思う」と「明日はきっと晴れると考える」というのは、意味に関して重なりが見られる。ただし、「思う」の場合は、情緒的な願いも含み、「なんでそう思うの?」と問われたら、様々な答えが想定される。
– 明日はきっと晴れると思う。
– なんでそう思うの?
– 思うからさ。
別に、映画のワンシーンなどで、こうした会話があっても不自然とは言えない。単なる願いや希望的観測であれば、「理由」があってもなくても構わないからだ。思うから、思うのだ。逆に、「考える」の場合には、「思う」のような情緒的な面は含まれず、「なんでそう考えるの?」と問われたら、しっかりと論理的な説明が行われる必要がある。
– 明日はきっと晴れると考える。
– なんでそう考えるの?
– 考えるからさ。
この会話は、さっきの「思うからさ」と比べるとだいぶ変に聞こえる。なぜなら、「考える」ということには、必ず「なんでそう考えたのか」思考的な道筋があるからだ。その「考える」の中身を聞かせてよ、となる。翻って、「思う」を「考える」のニュアンスで使用し、「なんでそう思うの」という質問に論理的な理由を答えても不思議ではない。「なんでそう思うの?」「◯◯の理由ゆえに、そう思う」といった具合に。先ほども触れたように、この「思う」という言葉を使う場合には、一部「考える」も含まれているからだ。「思う」の範囲は広い。
しかし、いったん文章から切り離し、ベッドに寝転がり、単純に「思う(想う)」と「考える」を比較してみると、両者には、動く部位に違いがあることが分かる。抽象的な表現になるが、端的に言えば、「思う」は胸の辺りが、「考える」は頭の辺りが反応している。ただ、繰り返しになるが、分離させ、独立した状態で比較すると違いが見えるものの、文章や会話で使われる場合には、複合的に入り混じっている。「そのとき君はどう思ったの?」という質問は、「情緒的にどう思ったか」ということも、また「論理的にどう考えたのか」ということも含まれる(「そのとき君はどう考えたの?」という場合には、情緒的な面は含まない)。
もう一つ似たような表現として、「感じる」という動詞もある。
これは、論理や情緒よりも、感覚的なもの、五感に由来するような直感のニュアンスが大きい表現である。痛いと感じる。痛いと思う。痛いと考える。誰かにいきなりつねられたとき、「痛っ!」となる。この「痛っ」となる部位は、「思う」や「考える」よりもはっきりしない。情緒的な解釈(「思う」)や、論理的な解釈(「考える」)を経由せず、直接的に「感じる」ものだろう。
この三つを、仮に能力や特性という視点で分けるとするなら、「情緒(思う)」「論理的思考力(考える)」「感受性(感じる)」といった辺りになるのかもしれない。