言葉の暴力性

言葉の暴力性

言葉の暴力性、というとき、まずは「暴力的な言葉」が浮かぶ。

汚い表現で、怒声をぶつける。活字にせよ、肉声にせよ、罵詈雑言を浴びせる。

あるいは、同じ言葉ばかり延々と洗脳のように聴かせ続けることも、ある種の言葉の暴力性と言える。

言葉の暴力によっても、誰かの心は蝕まれ、着実に死に向かっていくことになる。

一方、言葉そのものに備わっている暴力性、というのもある。言葉にしようと思ったら、言葉にできない何かを、言葉というパッケージに強引に収めることになる。

この言語化という作業によって、一つの暴力が発生する。

そして、その言葉を相手に届ける(侵入させる)という点でもまた、もう一つの暴力が発生する。

暴力的な言葉、という以前に、言葉には暴力性が内在しているのだ。

言葉の暴力性そのものを全否定しては、人間関係を築くことはできない。

無秩序な暴力性や、洗脳のような知的暴力を肯定するわけではなく、さりとて、ひととひとが言葉を通じて関わりを持つかぎり、ゼロの暴力も存在しない。

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