反省と後悔の違いとは
ときどき、「反省はしても、後悔はするな」という意見を耳にする。後悔ばかりして、いつまでもくよくよしても仕方がない。どこが悪かったのか、どうすればよかったのか、しっかり分析し、次は失敗しないように「反省」するのが大事だ、と。それはそれでもっともなことでもあるし、同時に、どこか引っかかりも覚える。そもそも、反省と後悔の違いとは、一体どういったものなのだろうか。
辞書によれば、反省は「普通のとらえ方や自分の普段の行動・あり方を振り返って、それでよいか考えること。」とあり、一方の後悔は、「してしまった事について、後から悔やむこと。」とある。反省は、「頭」が主役の行為で、積極的な「行動」という側面がある。後悔のほうは、「心」が主役の行為で、決して「行動」ではない(これは、後悔ゆえに、様々な行動をとってしまう、という話ではない)。
反省は、確かにその現象に対し、主導権を握ることができる。乗り越えるために、「反省」が必要というのは分かる。後悔は囚われることだが、客体化する反省は囚われから抜け出す術として使われる。ある種、心を守る方法でもある。実際に反省が活きるときもあるだろうし、大切なことではあると思う。しかし、もしかしたら大事なのは、「後悔」ではないか、と思うこともある。
反省だと、その現象に絞られる。「同じことが起こったときに、こう対処する(こう対処してはいけない)」という方法が頭のなかにあり、その通りに実行しようとする。逆に言えば、具体性が強すぎるゆえに、「底では繋がっている、実は同じような全く違うこと」には反応しづらい。後悔の場合、心の問題なので、反省よりも抽象度、観念性が高い。そのため、「底では繋がっている、実は同じような全く違うこと」にも、「これは、あれだ」と反応する場合がある。深い後悔、深い傷が残っている、というのは、本当の意味で「忘れない」ということでもある。反省する、すなわち、論理化し、加工する、というのは、実際は、「忘れる」ということに直結する。より真実から遠ざかることになる。これが、心を守る、ということにも繋がるから、難しい問題でもある。後悔は決して放してはくれず、忘れない、忘れられない状況になる。心が囚われ、身動きが取れなくなる。
反省は論述できるし、未来への保存も可能だが、後悔は個別的で、後悔を論述する、ということはできない。
昔の人が、どう反省したかは、頭から頭へのメッセージなので、理解ができるが、昔の人が、どう後悔したか、というのを知るのは容易なことではない。このとき、文学や芸術といった表現手段が必要になるのかもしれない。反省は、後悔を見えなくする、麻痺させる効果はあるが、文学や芸術は、後悔を後悔として受け止める、(ときに涙を経て)ゆっくり鎮めてくれる、やがて遠くにうっすらと見える、といった程度になる。
反省と後悔は、まったく違うものだが、両方がそれぞれに違う点から必要な気がする。
たぶん、AIは、反省はしても、後悔はしない。