議論が苦手な理由

議論が苦手な理由

討論の類が苦手で、その理由の一つとして、たぶん自分自身の頭の使い方が向いていない、ということもある。基本的に、自分のなかで考えながら、じっくり言葉にしていく、その言葉に興味を持ったり、賛同してくれたり、ちょっとだけ頭の片隅に置いておこうかな、と思ってくれる人に宛てて書いている。届かない人には届かなくていい。それは、色々な巡り合わせのなかでご縁がなかった、というだけの話だと思っている。

僕は、この「思考を纏めて、それから言語化していく」という作業に集中したい。この作業中に、横から、こうじゃないか、ああじゃないか、と言われると、頭がキャパオーバーになる。頭が締め付けられるように痛くなる。こういう人も、決して少なくないのではないかと思う。そして、キャパオーバーになった際、頭痛や息苦しさに繋がる人もいれば、内側の世界に閉じこもって守る人も、また外側に発散し激昂するタイプの人もいる。

こうなってしまう理由として、運動神経などと一緒で、人それぞれ頭の使い方に向き不向きがあるというのも大きいのではないだろうか。自身の思考も働かせながら言葉を考え、同時並行的に、相手との会話や、間合いを読んだリアクションも行う、あるいは瞬時に反応する、といったことが、それほど得意ではない、という場合もある。もともとの性質的なものなのか、後天的なものなのかはわからない。もし、討論や議論の側に特化しようとしたら、思考を深めることも、言葉の選択も、そのぶんだいぶ疎かになり、また、感情も絡んで言葉が壊れたり、相手を打ち負かしたように見せることに注力するなど、目的を途中で見失うことになるかもしれない。

自分の考えを深めて言葉にすることと、コミュニケーションを要する討論や議論の両立が、僕にとっては難しい。前者を程々にして、後者に振り切るなら、ある程度可能なのかもしれない。でも、その場合は、あまり深いテーマは避けたい(そもそも、本来なら他の切り捨ててもいい部分にまで無意識に気を働かせてしまう、というのもあるのかもしれない)。

どうしても必要であれば行わざるを得ないにしても、大抵の場合、終わったあとに、文章化させること以上の不完全な言葉の残骸と、疲労と、虚しさだけが残ることになる。もちろん、議論の有用性自体を全否定しているわけではなく、平静な、よい議論を見ると、違いや共通点が浮き彫りになるなど、より理解が深まることはある。ただ、僕自身は現状向かない、ということ。

それから、もし議論するとしたら、論点の違いを明確にする、お互いに把握する、という程度にとどめたほうがいいのではないかと思う。どちらが正しいかではなく、どこが違うかを丁寧にすり合わせ、互いの違いを認識したら終わりにし、あとは持ち帰って各々の判断に任せる。議論の目的や前提にずれが生じたままであれば、余計口論に発展し易くなるし、たとえお互いに同じ方向に進みたいと思っていても、その想定する時間や道筋の違いでも意見は分かれ、否定の感情が湧き上がってくることもある。だから、違いを互いに把握する、という程度がひとまずの終着点でいいのではないだろうか。

もう一つ、キャパオーバーになる理由としては、「疲れ切っている」というのもあるのだと思う。

精神面にしても、身体面にしても、あるいは、身体というより、現代社会の場合は、体を目一杯動かしたあとの疲労感ではなく、たとえば「脳疲労」や「過緊張」という言葉で説明されるような状況が、慢性的に続き、局所的な疲弊、摩耗といった状態にある。ただでさえ、同時に情報処理を行うことが苦手な上に、すり減っている状態だと、早々に「限界だ」となる。

精神面で言えば、子供の頃の経験などで頭ごなしに否定されることにトラウマを持っていたら、相手の言い方に刺激され、感情が高ぶり、思考と言葉が一気に乖離することもある。そういうことを、相手も把握して、わざと怒らせ、といった駆け引きも行われるかもしれない。

結局、そうなっていくと、この議論の目的は一体なんだったのだろう、となる。

別に、そういう状態になること自体を否定しているわけではなく、そういう渦に巻き込まれれば、人間だから乱れることは仕方がない側面もあると思っている。ただ、そのことによって一体何が得られるのか、ということに(その人の耐性や性質は見られるのかもしれない)対して疑問を抱く。

それなら、まだ、たとえば5つのテーマを決めて、1000文字のエッセイ的な文章をお互いに5本書き、読み比べて判断してもらう、といった形がいいのではないかと個人的には思う。それぞれで頭の使い方に向き不向きもあるし、容量にも差があるし、その溢れそうな度合いにも違いがある、ということは自覚的であったほうがいいと思う。

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