わからないこと

わからないこと

わからないことをわからないままに受け入れる、ということが、近代人には特に難しいのだと思う。

わからないものは、不安になる。不安になると、わかろうとする。このこと自体は、決して悪いことではない。疑問に思ったら調べる、調べることで不安が解消されることもある。

思考停止で、わからないまま、これが正しいと突き進んでいくことの弊害もある。

でも、この世界には、わからないこともある。一寸先は闇、という言葉があるが、未来のことはわからない。死後の世界もわからない。飼っている犬の眼差しが、何を意味しているのかも、感覚的に把握することはできるかもしれないが、頭で細かく言語化はできない。

もちろん、同じ人間でも、親しい友人でも、家族でも、厳密にはわからない(心が通じ合う、ということはある)。

わからないものに対して、調べてわかろうとする、あるいは想像力を働かせる、という方向と同じか、あるいはそれ以上に、わからないものをわからないものとして受け入れる、または、それぞれの事象に適切な曖昧さのままで受け止める、ということも大切なのだと思う。

わからないものを、必ずわかるはずだと思って、細かく分類したり、手を突っ込んでみたり、頭で考えれば考えるほど、わからなくなって、不安が大きくなる、ということは往々にしてある。

僕自身、不安神経症でずっと病院に通っていたから、その感覚は共感できる。だから、そんなことを不安に思っても仕方がないよ、気にしすぎだよ、と笑い飛ばすことはできない。

基本的には、誰でも心の奥底にそのスイッチはあり、疲弊しているからむき出しになっているのか、トラウマに由来するのか、いずにれせよ、そういう悪循環に入ってしまうことはある。

不安になって、少ない可能性を凝視しているうちに、その小さな穴はどんどん肥大化し、やがて自分自身を飲み込んでいく。

わからないものは全て知によってわかるはずだ、という傲りが、近代的な発想の落とし穴で、この沼は、どうしても不安が不安を呼び、全てを数値化したい、把握したい、という病的な管理社会にもつながっていく。

この現象は、神や自然といったものとの距離ができてしまったことも、大きな原因の一つだと思う。

人間がすべてを把握しなければいけない、把握できるのだと、そして、それは造り出せるのだと、ディストピアに向かっていく。

ただ、僕はここでそんなに大きな物語を語りたいわけではなく、一人一人が、不安や悲しみと向き合い、わからないこととの距離感に試行錯誤をしているうちに、この流れはいずれゆっくり変わっていくと思っている。

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