101号室(『1984年』)
ジョージ・オーウェルの『1984年』には、クライマックスの辺りで「101号室」という部屋が登場する。全体主義国家オセアニアの省庁には愛情省があり、省の施設内に、思考警察に捕えられた政治犯たちから最も恐れられる拷問や洗脳を行う独房として101号室がある。部屋は地下深くにある少し広めの独房で、主人公のウィンストンは、椅子にきつく縛られ、全身が身動き取れないほどに固定され、顔はただ真っ直ぐ前を向いている以外にない状態で拘束される。
「いつだったか君はわたしに聞いたね」とオブライエンは言った。「101号室には何があるのか、と。君はもう答えを知っているはずだ、とわたしは答えた。誰だって知っていることだ。101号室にあるのはこの世で最も恐ろしいものだと」
− ジョージ・オーウェル『1984年』
この101号室にある「この世で最も恐ろしいもの」。それは、人それぞれで違う。個々人が一体何を恐れているか、党は徹底した監視を通じ、悪夢や恐怖症まで把握している。
「この世で最も恐ろしいものとは何か」オブライエンは再び口を開いた。「それはきっと、個人個人で異なるのだろう。生き埋めにされる、炎に巻かれて死ぬ、溺れ死ぬ、串刺しにされる。死に方なら他にも50くらいはあるだろう。だが、それが何やら存外つまらないもので、命になど関わらないという場合だってある」
− ジョージ・オーウェル『1984年』
ウィンストンが恐れていたものは、「ネズミ」だった。党は、ウィンストンが、かつて壁の向こうでネズミが轟音を立てている悪夢にうなされていたことを知っていた。思考や心理は隅々まで監視され、そして、101号室では耐え難い恐怖の対象を押しつけられる。
痛みとは、痛みそれ自体だけでは、常に十分だとは言えない。人間はときとして、死ぬ限界ぎりぎりまで痛みに耐えることができる。しかしどんな人間にとっても耐え難いものというのは存在する ─── 考えるだに恐ろしいものがね。勇気や臆病さは関係がない。高いところから真っ逆さまに落ちるとき、ロープをぐっとつかむことは少しも臆病ではない。深い水の底から上がってきたとき、肺いっぱいに空気を吸おうとすることは決して臆病ではない。つまりそういう行動とは単に、どうにも抗うことのできない本能なのだ。
− ジョージ・オーウェル『1984年』
籠のなかで、猛々しく、腹を空かせた大型のネズミがキーキーと呻き声をあげている。レバーによって、ウィンストンの顔を目掛けて飛びつくような構造になっている。党の目論見通り、恐怖心に襲われ、パニックになったウィンストンは、彼自身が求められていることを本能的に行ってしまうことになる。ウィンストンは、この状況から逃れるために、狂ったように、愛する女性の名前を叫ぶ。
「ジュリアにしてくれ! これと同じことをジュリアに! わたしにじゃない。彼女になら何をしても構わない。顔を引きちぎってもいいし、骨まで食い尽くしても構わない。わたしはだめだ! ジュリアだ! わたしじゃない!」
− ジョージ・オーウェル『1984年』
これはウィンストンがジュリアとのあいだで交わした、互いを感情の上では裏切らない、という約束を破る行為だった。結果、ウィンストンは許され、拷問から解放される。しかし、ウィンストンの心は完全に折れる。
その後、日常に戻ったウィンストンとジュリアは、冬の公園で偶然再会する。二人とも、決定的に何かが変わってしまっていた。ウィンストンはジュリアを心から裏切り、ジュリアもまた、ウィンストンを裏切っていた。お互いに、恐怖から逃れるために相手を身代わりとして差し出すように懇願した。心の底から願った。その経験が、もう二度と、相手に対し、かつてのような感情を抱くことを拒絶させるのだった。
「かれらだって人の心のなかにまで入りこめはしない」と彼女は言った。だがかれらにはそれができるのだ。「ここで君の経験することは永久に変わらず続く」とオブライエンは言っていた。そのことばに嘘偽りはなかった。どうしても立ち直ることのできない出来事、自分のやった行動というものがある。何かが胸の内で葬られる、燃え尽き、何も感じなくなるのだ。
− ジョージ・オーウェル『1984年』
ちなみに、この101号室というのは、著者のオーウェルがBBCに勤めていた時代、うんざりするほど長く退屈だった会議の行われた一階の会議室に由来している。