マスクを外せない心理

マスクを外せない心理

一般的に外してもいいと言われている環境下でさえ、マスクを外せない人も少なくない。海外ではマスクを外している国も多く、ライブやイベントもマスクなしで行われている。スポーツの試合の観客の様子を見ても一目瞭然である。

Utada Hikaru LIVE at Coachella 2022

【トマト祭り】3年ぶり開催 スペインに約1万5000人集結 街は真っ赤に…

北アフリカにあるモロッコの日常も、マスクに関して日本とは全く違う世界が広がっている。

政治家も、海外に行ったり、外国の要人と会う際にはマスクを外している様子が見られ、内心では重要視していないことが伝わってくる。

しかし、映像としては見ていても、日本では、なかなか外せない人も多い。その理由としては、まだウイルスが怖いという人もいれば、不安な人がいる可能性があるから、という人もいる。クレーマーが怖いという人もいるだろうし、もともと潔癖だったという人もいる(マスクの内側は細菌が繁殖しやすくなるので、逆に潔癖ゆえにつけたくないという人もいる)。

>>コロナをきっかけに「潔癖症」が悪化 転職で仕事内容より感染対策が気になる人も|AERA

また、人の目ゆえに外せないという人も相当多いようだ。みんなと違ったことをして目立ち、非常識だと思われたくない、という恐怖心が働く。誰か上の人が「外していい」と言うか、みんなが外したら外す、という声も聞く。

アメリカの文化人類学者のルース・ベネディクトが『菊と刀』で書いていた日本人の「恥の文化」という言葉を思い出す。

西欧的な罪の文化では、道徳は絶対的な標準をもつものとされ、個々人が良心による内面的な罪の自覚に基づいて行動を律している。それに対して日本人の生活に見られる恥の文化は、他者の非難や嘲笑を恐れて自らの行動を律するという。したがって前者では、自分の非行を誰一人として知らなくとも罪に悩むのに対し、後者では、露顕しなければ恥ではなく、思いわずらうことはない、とされる。 – 罪の文化、恥の文化

いずれにせよ、僕自身は、身体的な許容量や感受性は人それぞれであり、弊害もあることなので、基本的には個々人がメリットとデメリットを考慮して判断すべきことで、他人、あるいは全員に「こうしろ」と言うべきことではないと思っている。

マスクと閉所恐怖症

一方で、こうした「対策」関連とは直接関係なく、別の心理的な理由から、マスクを外せない、という人もいる。

先日放送された『探偵ナイトスクープ』という番組で、マスクを外せない女子中学生の特集をしていた。中学一年生の女の子は、家以外ではマスクを外せず、クラスメイト同士でも顔を知らない子も多く、付き合って2ヶ月になる彼氏とは、お互いマスクなしの顔を知らない。

依頼人は北海道の女性(40)。中学1年生の娘は、家にいる時以外は絶対にマスクを外したがらない。中学に入って、別の小学校から一緒になった友達の前で素顔を見せるのを嫌がり、登下校や体育の時にもかたくなに外さない。夏は日焼けが気になり、日焼け止めを塗っているが、肌がツートンカラーになっている。

付き合って2カ月になる彼氏がいるが、いまだに素顔を見せたことがないという。可愛いから大丈夫と言っても、本人は「自分はブスだから素顔を見せたら幻滅されるから嫌」と聞く耳を持たない。– <探偵!ナイトスクープ>マスクを絶対に外さない中1女子 付き合って2カ月の彼氏に素顔を見せられるか?

番組内では、女の子がマスクを外すことを怖がる切実な心情が描き出されている。最後は、彼氏が、「マスクを外してもずっと好きでいるから安心して」と語りかけ、彼女は勇気を出して外す。

先ほど直接的な関係はないと書いたが、もちろん、マスクを過剰に求めて誰もがつけている環境がもたらした社会的な弊害の一つではあると思う。

隠していることが一般化され、素顔を見せることが怖くなっている。恥ずかしい、きっとがっかりされる、だから外せない。特に思春期だと尚更だと思う。僕も、中学生の一時期、自分の顔のある一部分が他人と違うのではないか、変なのではないか、ということが気になって仕方がなくなったことがあった。

醜形恐怖症という疾患名がある。これは他人から見たら大したことがなくても、本人にとっては、「醜い」「変形している」という観念に囚われる症状を指す。

もともと、自身の見た目に関する神経症的な不安感や恐怖心は、現代社会における大きな問題でもあったと思う。特にSNSの広がりによって拍車がかかったのではないだろうか。「盛る」という言葉もあるが、その一つに、写真の加工アプリによって盛る、という方法がある。欠点を消し、修正できる。言ってみれば、実際の自分とは離れた理想の自分をデジタル技術によって作り出し、周囲に公開する、ということだろう。

結果として、人間の生々しい実態とは異次元の「美しい」「可愛い」顔で溢れ返るようになった。ある程度自覚して楽しんでいるぶんにはいいにしても、この常に加工された理想との比較に囲まれた世界では、いっそう自分の「醜さ(人間の生々しさと言ってもいいかもしれない)」を突きつけられることになる。

可視化されることによる弊害は様々あれど、その可視化された物事が、「理想」の集積であるなら、もはや平均値でもなく、実はほとんど誰もが届かない幻想ばかりの世界で、常に自分が「だいぶ劣っている」と刷り込まれる。

こういう状況が続いているなかで、さらにマスク社会も重なり、いっそう他人に顔を見せられない(マスクを外せない)という若者も増えたのではないだろうか。

もう一つ、この醜形恐怖的な心理に加え、匿名性のなかに隠れたい、他人と距離を置きたい、という心理で「外したくない」「外したいと積極的に思わない」という人も多いように思う。

僕自身、ひきこもりだった時期もあり、マスクで覆って、自分を隠す、世界と自分とのあいだに一枚の布を挟んで距離を隔てる、いわば動きながら引きこもるツールとしてマスクを使いたくなる感覚は分かる。

仮面をかぶる、という言葉もあるように、本心を隠し、偽りの自分を繕う人がいる。と言うより、これはほとんど誰もが大なり小なり行なっていることだと思う。あるいは、顔を隠すことで、匿名性のなかに一個自分を隠すことができる。

その象徴的な道具の一つに、マスクがなっている。

広い意味で言えば、髪を染めたり、サングラスを掛けたり、髭を生やしたり、ということと似ているのかもしれない。世界と自分のあいだに一枚入れる。別人になる、あるいは匿名化する、ということで安心する。

もともと「ひきこもり」願望が強かった人にとっては、マスクは心理的な安心材料になっているのではないだろうか。「だてメガネ」ならぬ「だてマスク」という言葉があり、2010年頃から登場するようになる。この「だてマスク」に関し、2015年には心理学の専門家による次のような記事も出ている。

口元のたった20センチ四方ではありますが、外部と遮断されたちょっとしたプライベート空間ができあがるのも実感。それはたとえるなら、家でついに個室を与えられた中学生のような背徳感、あるいは、パーテーションで仕切られたカウンターで存分にラーメンをすするリラックス感です。

電車の中でも、歩いていても、マスクさえあれば、そこ(顔付近)は一気に自分だけの場所になります。「話しかけられたくない」「話したくない」「表情を見られたくない」「匂いをかぎたくない」という気持ちが高まり、どんどん「引きこもる」ことに。 – 「だてマスク」が流行する理由。「顔のパンツ」でプライバシーを守る。」

こういった背景も、マスクを外せない心理的な理由として挙げられるのではないかと思う。そして、それはある意味で仕方がないことであり、自己防衛の一環であると思う一方で、「そうしないと要られない」依存状態にあるなら、それは決して健全なことでもないと思っている。

人々は、もう疲れ切っている。疲れ切っているゆえ、神経が過敏になっている。そのとき、人は物凄い「気にする」ようになる。外れた部分を、汚れのように捉え、許せなくなる。それは他人の一言でも、有名人の過ちでも、自分のホクロでも同じことが言える。完璧な「こうあるべき」があり、その「美しい規範」から外れたものは絶対に許せない。

汚れを何度も何度も洗って落としたくなるように、排除するかの如く攻撃的になる場合もあれば、逆に世界のほうを消去し、内側にこもる場合もある。

マスクをしていない人が許せない人にとっては、彼らは気になって仕方がなく抹消したい汚れのようなもので、これは顔を隠したいという心理的理由からマスクを外せない状態と、別の問題のようで実は裏表の関係にあるように思う。

21+