マスクと閉所恐怖症

マスクと閉所恐怖症

マスクが苦しい、辛い、という声はたくさんある。身体的に苦しい人もいれば、精神的に苦しい人もいる。暴行の被害を受け、口を塞がれたトラウマから、口を塞ぐマスクをしていると記憶が蘇ってくる、という声もある。

アメリカでは、神の与えた呼吸を遮るマスク、というものへの信仰上の拒絶反応を訴えている人もいた。もっと言えば、身体に関する自己決定というのも、一つの思想信条であり、この部分を侵害されることへの抵抗感の強い人もいると思う。

20代の知人は、マスクの辛さの理由として、閉所恐怖症を挙げていた。閉所恐怖症のときのどんどん狭まっていって苦しくなるような不安感と似ているのだと言う。

Twitter上でも、閉所恐怖症でマスクが苦しい、といった声は見る。

人間の身体的な感受性や許容量も、過去のトラウマも、それぞれで違う。

でもさ、そんなことを言っても、みんなも普通にやっているんだから、「みんなの普通」に合わせろよ、みんな苦しくても頑張っているのだから、我慢して着けろよ、ということだろうか。

もともとそういう発想の人には、特に言うことはない。ただ、もし、まさにその「みんなの普通」ということに苦しんできた人まで、マスクになった途端(多数派の「普通」に所属した途端)、同じことを言うようになっているのだとしたら、それはだいぶ残念なことだなと思う。

僕の場合、マスクは単純に苦しい。呼吸がしづらいと、不安感も高まり、余計に呼吸が浅くなる。だからと言って、「反マスク」という指摘はおかしいと思う。別に「反マスク」ではない。その苦しさを負ってでも、自分が必要だと思った際にはマスクをする。本当は、全員が揃ってマスクをしている光景自体、不安感に襲われるが、それは個人の受け止め方の問題であり、他者のマスクをしないと不安だ、という感情や決定まで否定するつもりは全くない。

僕が反発を覚えるのは、「全員が同じ」という設定のもと、「みんなの普通」を押し付け、一人一人を置き去りにし、しかも自分たちは善のために行なっていると信じて疑わないから、暴力性の抑止が効かず、勝手に「反マスク」「反社会的」といったレッテルを貼る、その傲慢さに対してである。

しかも、科学的にはっきり抑止の効果があると言うならまだしも、コロナ以前や初期は、これほどのマスク神話はなく、症状のある人は咳エチケットの一環としてマスクをしましょう、という程度だった。

東京都医師会 コロナ初期に発表した見解

しかし、まもなく、象徴的、記号的な意味合いを持たせるようになったと僕は思う。この方針に従っていないものは、「反マスク」という異端者である、といった風に。

ノーマスクで、こんな風に集まって、そのたびに感染者が増加する、という事実があるなら、因果関係としてマスクや集会を問題視して制限を行う論理も分かる(それでも個人の人権は配慮すべきだと思う)。でも、実際には、そんなことになっていない。

科学的に曖昧な方針で、苦しんでいる人たちや、本当は嫌だと思っている人たちに異端者レッテルを貼り、全体のために、全員同じように従うべきだ、という押し付けを肯定するなら、今後、別の要求をされたときに抵抗するロジックも失われると思う。

思いやりワクチンのCM

たとえば、肥満は病気に繋がり、病気は医療費の増加に繋がる。全体への「思いやり」のために、ダイエットを強要され、食事制限などを国で管理されたら(あるいは、太っている人は痩せることを促進する新型の注射を打つような空気が政治家やメディアによって作られたら)抵抗感を抱かないだろうか。

こういったことと、本質的に変わらないと僕は思う。

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