感染経路、という発想の恐ろしさ

感染経路、という発想の恐ろしさ

感染経路という言葉がずっと使われているが、「感染経路不明」だと恐ろしい、という感覚を抱くのは、人間のコントロール不能になっている、と感じるからなのだろう。しかし、そもそもあっという間に広がる感染症のコントロールなど、最初から不可能で、今さら「感染経路」など分かるはずもなく、加えて、本当に恐ろしいのは、「感染経路(が分かる)」という発想そのものではないだろうか。感染経路という発想が、誰がうつしたとか、どこで拡大したといった差別や糾弾の温床に繋がっていく。

なぜ「今さら」と思うかと言えば、最初期を思い出してもらえれば、その意見も一理あると思ってもらえるかもしれない。これは「無対策なら死者40万人」という話があり得ないと思った理由とも関連している。

まず、2020年の1月、2月の段階で、中国人訪日客だけで約100万人である(日本政府観光局)。他の国々からも外国人は来日し、国内を旅行している。もちろん、日本人も仕事含め海外に行っていたわけで、その交流を考えれば、「無症状も多く、爆発的に広がる」というなら、もともとコロナウイルスは冬場がピークでもあり、この時点でとっくに国内で広がっていると考えるのが自然だろう。この頃は、「対策」もそれほど厳しいものではなく、マスクの圧力もほとんどなかった。欧米が先に感染爆発し、日本も二週間後にはニューヨークだ、ロンドンだ(ロンドンでは、五輪は「東京がダメならロンドンで」という市長候補の発言も話題に)、というような話もあったが、一体いつ抜かれたのか、と素朴に疑問で、どう考えても、中国と交流が深く、高齢者も多く、都市部の密度も高い日本のほうが先に広がるはずであり、日本だけ「ゆっくりになる」ということはあり得ないだろう。検査も絞っていたので顕在化しなかっただけで、とっくに広がっていた、と考えたほうが、「無症状も多く、爆発的に広がり、無対策なら大変なことになる」という前提なら、ずっと論理的整合性があるのではないだろうか。

岡山の西大寺で「はだか祭り」 数千人が宝木を奪い合う|CNN

2020年2月15日には、岡山県ではだか祭りも行われている。この頃には、まだ岡山には到達していなかったのだ、と言われるのだが、「無症状が多く、爆発的感染力」で、中国人含む外国人観光客も日本人観光客も国内を旅行し、自由に国内移動が行われ、ほとんど無対策だったのに、まだ岡山には到達していなかった、というのは、先ほど説明したように「あり得ない」と思う。

もうとっくに広がっていた、と考えた場合、もしあの予測が正しいのであれば、2020年の1月、2月の段階で、40万人が死亡している、少なくとも、明らかに目立った、隠しきれないほどの被害が出ていることになる。たとえば、東京の病院や介護施設で、インフルエンザのような原因不明の集団感染が発生し、多数の死者が出る。学校が学級閉鎖になる。そういったニュースが頻発しているだろうし、すでにコロナの話もあったわけで、これはコロナではないか、とたちまち大騒ぎになっているだろう。

しかし、実際にはそんな話はなかった。

厚労省 人口動態統計

また、国内の総死亡者数も(青が2019年、赤が2020年)、一年通しても前年比で減少しているし、1月、2月だけを見ても減っている。無対策なら「40万人死亡」するような病が、実は隠れて流行っていた、というような痕跡は全く見られない。もうとっくに広がっていた、あるいは、とっくに感染する機会に無対策・無防備のままで遭遇しながら、例年通りだった、ということは、普通の風邪程度で気づかないうちに治っていたか、そもそも無症状で問題なかった人が相当数いる、という風に考えるほうが自然だろう。

ちなみに、もっと初期から水際対策をしっかりすれば、という意見もあるが、水際対策も別に大した意味はない。そのことは、2009年の新型インフルエンザ騒動の際の反省を綴った、日本経済新聞社会部の方の文章『2009年新型インフルエンザ ―「未知の感染症」をどのように報じたのか?―(これは内閣官房のホームページで公開されている)』でも、はっきりと書かれている。

海外での感染拡大のニュースが次第に報じられるなか、日本政府は感染した患者が確認されていないだけに島国であるメリットを最大限生かそうと、感染の疑いのある人を入国審査で厳しく検疫する「水際対策」に力を入れ、メディアも中心的に報じるようになっていった。

だが水際対策には限界がある。インフルエンザに限らず感染症の多くは感染しても症状が出るまでの「潜伏期間」がある。季節性インフルエンザの場合、2~5日間とされる潜伏期間中、発熱やせき、くしゃみ、頭痛などの症状もなく、検疫で問診票やサーモグラフィーで体表面の温度を測ったとしてもすり抜けてしまう。新型インフルエンザの場合、出現したウイルスによって季節性と異なる可能性があるが、いずれにしても潜伏期間があるため、すり抜けを防ぐことはできない。

(中略)

2009年の新型インフルエンザの流行の際には、麻生太郎首相(当時)が海外での流行を受けて4月26日に記者団に「日本に入ってきて広がるのを水際で止めなければならない」と発言した。……舛添要一厚労相(当時)が「ウイルスの国内への侵入を阻止するため、水際対策の徹底を図っていくことに万全を尽くす」と説明したように、政治家が「水際対策を徹底すれば、ウイルスの侵入を防げる」と受け止められる発言を繰り返した。

厚生労働省としては、WHOのフェーズ4宣言を受け、専門家の意見も踏まえた対策の目標では第1に「感染拡大のタイミングを可能な限り遅らせ、その間に医療体制やワクチンの接種体制の整備を図る」ことを掲げていた。水際対策はあくまで「時間稼ぎ」に過ぎず、決して水際対策でウイルスの侵入を防げることを前提にしていなかった。……(メディアも)白い感染防護服に身をまとった職員などが航空機内や空港を駆け回る光景を繰り返しテレビや新聞で伝えることで、「検疫を強化すれば日本への上陸を防げるのではないか」という期待と誤解を国民に広めた側面は否めない。

(中略)

振り返ると、検疫の限界を繰り返し伝え、水際対策に力を入れすぎる政策に対して警鐘を鳴らす報道が必要だったと考える。

– 2009年新型インフルエンザ ―「未知の感染症」をどのように報じたのか?―

そもそも、水際対策は、主に歩行や馬や船で移動していた中世の手法で、これほど人の往来が激しく、速度も速く、検査も完璧ではなく、無症状も多いもの(インフルエンザにせよ、既存コロナにせよ、ノロウイルスにせよ、無症状が一番多い)を、水際で止める、などというのは不可能であり、精々「時間稼ぎ」に過ぎない。少しだけピークを遅らせ(これもコロナで当初言われていたのに、めっきり聞かなくなった)、「時間稼ぎ」をし、そのあいだに「医療体制を整える」ということが本来の目的だった。しかし、この時間稼ぎをしているあいだに医療体制を整える、ということには一向に手をつけない。また、水際対策の効果については、「時間稼ぎ」としても機能しない、という指摘さえあるほどである(感覚的に、よくわかる)。

新型インフルエンザ特措法は再び社会を混乱に陥れる(2012)

新型インフルエンザ騒動のあと、「水際対策」という名称が、水際で食い止めるという印象を与えることから、名前を変えたほうがいいのではないか、という議論もあったようだが、結局、現在も変わらない名称で、メディアも反省がなく「水際対策」を連呼している。

話を、「感染経路」に戻すと、もうとっくに広がっていて、いつどこで感染したか、どこでも可能性があり、よほど限定された生活を送っているのでないかぎり、「今さら」感染経路など分かるはずがない。しかし、「感染経路」が分かる、という前提で進め、「感染経路不明」ということを、さも恐ろしいことのように喧伝けんでんする。そして、「なんとなく」で、特定の〈ターゲット〉を絞って槍玉にあげる。この〈ターゲット〉は、次は自分たちの属性や業種かもしれない。彼らが感染源だ、感染を広げているのだ、というイメージをつくる。これは容易に政治利用することも可能だろう。この問題も、新型インフルエンザのときの反省の記述に似たような指摘がある。

「なぜもっと早く新型インフルエンザと分からなかったのか」「最善の策は取ったのか」「生徒を外に出すな、うつったらどうしてくれるんだ」。大阪府内で集団感染が確認された学校には、中傷やクレームの電話が殺到し、一時電話が通じなくなるほどだった。この学校の生徒が制服をクリーニングに出そうとしたら「○○高校なの?」などいやな対応を受けたり、タクシーで乗車拒否されたりするケースも出た。インターネットの掲示板などへの書き込みでも、「○○高校の生徒に近づくとウイルスがうつるぞ」など根拠のない誹謗中傷が広がった。

あるテレビ局では感染経路について「△△部による対外試合で感染が拡大した」など誤った情報を伝え、高校の部室の外観を放映して、特定の部活動が感染源であるかのようなイメージを与える報道もあった。その後も患者が発生した複数の学校では、校長が記者会見して謝罪し、中には涙を流す校長もいた。感染したことが罪であるかのような記者会見だった。  

– 2009年新型インフルエンザ ―「未知の感染症」をどのように報じたのか?―

情報が科学的に正しかったらよい、というものでもない。感染症は差別の問題と切っても切れないわけで、相当慎重な言葉遣いが求められるのに、その配慮も見られない。「◯◯で感染拡大した」「××していない人間が感染源だ」と平気で決めつけることが横行している。

ところで、感染経路云々は「今さら」意味がない、と書いたが、これは政府の専門家も、現場の保健所の方も語っていることである。

比較的平静だった時期に編集されたこの「21世紀の危機?」特集に、現在も政府のコロナ分科会で委員を務める岡部信彦氏への聞き書き(「新興感染症への備えを強化せよ」)が載っている。

そこでは以下のとおり、感染経路を追跡するのは感染者が海外からの帰国者等に限られるような、問題の最初期でのみ有効な対策であり、国内での感染が拡大した場合は放棄して対応を変えてゆくのが妥当であると、明快に説かれている。

– 自粛とステイホームがもはや「正義」ではないこれだけの理由(現代ビジネス)

政府の専門家も、感染経路の追跡は最初期のみに有効だ、と把握している(「封じ込め」のためではなく、どういった場所で集団感染が生じやすいか、という「分析」のためだったとしても、最初期のみで十分だろう)。ちなみに、岡部さんは、新型インフルエンザの反省を活かせていないことも理解している。以下は、2020年の春に行われた朝日新聞のインタビューのやりとりである。

(インタビュー)緊急事態、宣言は必要か 新型コロナ 岡部信彦さん

あえて行なっているのではないかと疑いたくなるほど、同じ形態の失敗を繰り返している。

感染経路については、神奈川県の保健所も「調査は意味がない」という発信を2021年1月に行なっている。

積極的疫学調査は感染者に行動歴を詳しく聞き、接触した人を見つけ、蔓延を防止する狙いがあるが、医療危機対策本部室の山田佳乃担当課長は「どこに感染者がいてもおかしくない蔓延期に既に移行している。積極的疫学調査に意味がなくなってきた」と話す。

–  「感染蔓延で経路調査に意味なし」 神奈川県、感染経路や濃厚接触者の調査を原則やめると発表 全国初<新型コロナ>

この見解は至極真っ当で、「今さら」分かるはずがない。差別を助長し、現場に膨大な負担をかけるだけではないだろうか。感染経路をちゃんと把握しろ、濃厚接触者を追いかけろ、この作業を怠ると一気に感染爆発する、と考える専門家の脳内イメージは、「我々は現在も尚、多くを把握し、感染症をコントロール下に置いている」という前提に立っている。そんなわけがない。濃厚接触者の追いかけを止めたら、その途端に感染爆発する、と考える人は、一体どれだけ人類の力を過信し、あるいはウイルス(自然)を舐めているのだろうと思う。川の流れをスプーンでせき止めようとしているようなもので、スプーンを抜いても特に趨勢は変わらない。

もし、意味がない(また、甚大な弊害も生じる)とわかっていながら続けている、とすれば、別の誰かにとって「意味(利益)」のあることだからなのかもしれない。この政治的ないしは経済的な思惑については細かく触れないが、「感染経路」という発想の危うさは、無根拠に特定の業種を潰すことができたり、差別を助長させる(ある人たちに人々の攻撃性を集中させる)ことに繋がっていく、という点にある。政治権力的にも、集団心理的にも、これは暴走を孕んだ、非常に危うく、恐ろしいことだと思う。

いずれにせよ、もし仮に「万が一にも誰かが亡くなるかもしれないから」と、無数の種類の風邪ウイルスに関するPCR義務化を行なって、感染経路もはっきり見えるようになったとして、だれがうつした、誰に殺された、誰々はウイルスを吐き出しがちだ、ということが科学の力で分かる「安全な世界」の到来は、果たしてほんとうに幸福なものなのだろうか。

PCRで細かく追いかけたら、「無症状クラスター」だらけなのはきっと日常だった

気づかないうちにだれかにうつしてしまって、その結果(あるいは連鎖していって)亡くなってしまうことも、無数にあっただろうが、そのことを本気で止めようと思ったら、人間はもう安心して“社会”を営めなくなる、他罰感情と罪責感に怯え続ける

メディアが騒がなくなっただけで、実は共存してきた「未知」の新型インフルエンザ

あのときのあれは、自分だったかもしれない、と責め立てる社会がいいのか、とすれば、誰も無罪ではありえないだろう

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