「感染拡大」はいつ収まるのか

「感染拡大」はいつ収まるのか

感染拡大がいつ収まるかというのは、誰もが知りたいことだと思いますが、そのためにも、まず「感染拡大」という言葉の捉え方自体が疎かになってはいけないと思います。

この辺りが曖昧だと、何が終わるか、どうなれば終わりかがはっきりせず、いつまでも終わりようがありません。

騒動以降、一年以上、政治や報道で「感染拡大、感染拡大」と連呼されています。

赤字や音で「感染拡大」と装飾し、演出を加え、「どんどん広がっている」というイメージを植え付ける。また、ターゲットを絞っては、「彼ら」が「感染拡大」を助長している、という印象づけも行なっています。

それでは、素朴な疑問として、そもそも「感染拡大」とは一体どういう状況で、「感染拡大が収まる」というのはどういう状況を指すのでしょうか。

以前、「感染経路、という発想の恐ろしさ」で書いたように、初期の頃を思えば、もうとっくに広がっていると考えるほうが自然で、かつ新型コロナウイルスも、次第に他の風邪コロナウイルスと同じように定着すると指摘されています。

北海道大学ウイルス学教授の高田礼人さんは、昨年夏に、「多くは無症状か軽症であることが分かってきましたし、このまま行けば、五番目の風邪ウイルスになるのではないかといった感じで見ています(新型コロナウイルスと共存するには 差別、偏見の課題|読売新聞)」と語り、尾身会長でさえ、ワクチンの普及が前提とは言え、いずれ季節性インフルエンザのような形で、それほど不安や恐怖心がないというようなことになる、と語っています。

個人的には、もう定着している、あるいは最初から定着しているようなもので、季節性によって流行したり鎮まったりしている、と言うに過ぎないように見えます。

つまり、ずっと「拡大」が続いていると見るか、すでに定着しているものが秋冬などに「流行」すると見るか、という点で違いがあるわけです。

当初から疑問だったのですが、検査数によってもそうですし、無症状まで捉えようとするかどうかによっても(特に初期は体温など制限もあった)左右される検査陽性者数をもとに、「拡大」云々ということは、そもそも言えないんじゃないか、と思います。

東京都医師会の昨年二月の見解

ある程度条件などを統一して、定点観測のような形で週に一回なり月に一回なり適切な形で統計をとって、その上でずっと右肩上がりで増えていくなら「拡大」であり、ある季節によって鎮まったり増えたりする(ワクチン接種によって逆に増加する可能性も指摘されていますが、ここでは触れません)というのは、例えば冬場にかけて「流行」している、というような表現をするほうが合っているのではないでしょうか。

上記の東京都医師会の見解にもありますが、二〇〇九年に騒動になった新型インフルエンザは、その後、季節性インフルエンザとして定着し、「騒ぐのをやめた」ことで共存という形によって収束に向かいます。

では、この新型インフルエンザは、「拡大している」と言い続けていたのでしょうか。ずっと「感染拡大中」という話だったのでしょうか。

この辺の定義や考え方をもう少しはっきりさせないかぎり、「感染拡大」という言葉も非常に虚しい装飾になると思います。

感染拡大が収まるというのは、一体どういう状況なのでしょう。

低い値で横ばいになるということでしょうか。季節性も一切関係なく陽性者の一桁レベルが続くことや、ゼロコロナ(このゼロも、あらゆるものを検査し尽くし、消毒や隔離をし尽くし、人体や動物のどこにも新型コロナが存在しないことを指すのか、それとも無症状も含めた陽性者がゼロのことなのか、コロナ死者がゼロなのか、という点がよく分かりません)を、感染拡大が収まる、と考えるのでしょうか。

しかし、定着すると言っていますし、もともとコロナは冬場がピークなのですから、同じ検査体制を続けるかぎり、そんなことはありえないでしょう。

無症状のひとまで、ウイルスがちょっと粘膜に付着した程度まで細かく見つけて、もし陽性者が一人でも出たら、「この世界で新型コロナが拡大している」という風に捉えるのでしょうか。

こういう辺りを抜きにして、「感染拡大」や、拡大要因は(因果関係も曖昧なまま)「彼ら」に違いないという風に断言することは、とても空疎であり、「感染拡大」という記号を暴力的に利用しているように思えて仕方がありません。

「変異」というのも自然なことなのに、人間心理として「次の瞬間変わるかもしれない」というのが恐ろしいという点をついてか、「変異」を多用する

同じ手法は、二〇〇九年にも行われている(新型インフルエンザ特措法は再び社会を混乱に陥れる(2012)

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