マスクなしの散歩のときの話

マスクなしの散歩のときの話

これは僕ではなく、母の話である。田舎に住んでいる母が、マスクをつけずに散歩をしていたら、母と同世代の60代くらいのマスクをしたおばさんたちが、「またクラスターが起きたら大変よね、たった一人のために」と話していたと言う。母に聞こえるようにわざと当てつけで言ったわけではなく、偶然のタイミングだったようだが、そもそもこの発想の根深さが深刻だと思う。

まず、無症状はインフルエンザやノロウイルスでも多く、その無症状者までPCRで細かく探し出し、無症状も含めて「クラスター」などと騒ぎ立てること自体不毛であり、むしろ社会的、人間関係的に相当害が大きいと思う。また、その膨らし粉を使った「クラスター」に対し、感染源の対象や感染経路を特定しようとすることも、ほとんど無意味で、かつたいへん恐ろしいことではないだろうか。

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感染経路、という発想の恐ろしさ

大体、誰からうつされたか、どこでうつったかなどということが「分かる」と、なぜ思うのだろう。政府やメディアから、まるで「ワクチンを打っている人」「マスクをしている人」は絶対潔癖で無菌の人間であり、逆に「ワクチンを打っていない人」「マスクをしていない人」が、ウイルスを発している、というイメージを抱かされているように思う。あるいは、「夜の街」やら「会食の席」が問題だ、と。

実際は、よほど限定された生活を送っていないかぎり、誰からうつったかやどこでうつったかなど特定できないし、万一推定でそういう可能性が高かったと考えられたとしても、そのことで、「あいつのせい」などと言い出したら(まして無症状まで言い出したら)、社会や人間関係は一体どうなるか、ということについて、それこそ想像を深めてみてほしいと思う。

僕は昔、友人がインフルエンザで寝込んでいたのでお見舞いに行ったことがあった。その数日後に、僕も高熱にうなされ、一人暮らしのなかでとても苦しい思いをした。もしかしたら、友人からもらったものかもしれない。可能性としては、そう考えるのが自然だと思う。一方で、その道中、たとえば電車のなかで、別の誰かからもらったものかもしれない。もっと言えば、僕も電車で誰かにうつしているかもしれない。このことで、誰かが誰かに対し、他罰的な感情を抱くことが、厳格に追求することが、果たして社会の住みやすさや全体の健全性に寄与するだろうか。

無症状でもウイルスがあるかもしれない、万一うつすかもしれない、万一うつった相手が亡くなるかもしれない、という「可能性」を、しかも薬害など人為的なものではなく、生き物なら避けられない宿命的な自然現象に対して適用したら、人間社会は、「思いやり」の名の下に根底から破壊されることになる。

世の中には、曖昧にしておいた方がいいこともある、曖昧だから生きられることもある。風邪がだれからうつって、だれのせいで、と曖昧さがなくなって厳格になったとして、その厳格さが、心地よい、優しい世界にはきっと繋がらないだろう。


首相、バイデン氏の出迎えや会談でマスクなし…互いに顔見せ信頼深めること重視|読売新聞

もし無症状でもマスクをすることが思いやりなら、万一に備えて高齢のバイデンさんの前でマスクをしたら、それは思いやりであり、信頼関係が構築されると考えるべきなのに、「信頼を深めるためにマスクを外す」というのなら、それはつまり、相手をバイ菌みたいに扱って失礼だ、信頼を深める際に障害になる、ということをわかっている、ということではないだろうか


 

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