カフカが医者嫌いの理由

カフカが医者嫌いの理由

現在のチェコ出身でドイツ語作家のフランツ・カフカは、1883年にプラハで生まれ、1924年に結核のため亡くなる。生前はほとんど無名で、発表された作品も、代表作として知られる、ある朝目が覚めたら巨大な虫になっているという不条理文学の『変身』など、わずかだったが、死後に友人のマックス・ブロートの尽力もあり、遺稿も含めて世界的な評価を受ける。

カフカは、精神的な不安感や身体的な不調に長年悩まされ、その心身の重荷も彼にとっての生きることに対する深い絶望を助長させた。決して長いとは言えない人生のなかで、手紙や日記、また言葉の断片のようなものも数多く書き残している。日本では、少し前に、彼の絶望ぶりを表すネガティブな「名言」ばかりを集めた、『絶望名人 カフカの人生論』という本も出版されている。

カフカの言葉は、父との関係、書くこと、体と心の弱さ、ということが、全て一度絶望というフィルターを通して書かれているようにさえ思える。

将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。(手紙)

ちょっとした散歩をしただけで、ほとんど三日間というもの、疲れのために何もできませんでした。(手紙)

ぼくはいかなる事にも確信がもてず、自分の肉体という最も身近なものにさえ確信がもてませんでした。気苦労が多すぎて、背中が曲がりました。(手紙)

ぼくは人生に必要な能力を、なにひとつ備えておらず、ただ人間的な弱みしか持っていない。(ノート)

ミルクのコップを口のところに持ちあげるのさえ怖くなります。そのコップが、目の前で砕け散り、破片が顔に飛んでくることも、起きないとは限らないからです。(手紙)

–  頭木弘樹訳編『絶望名人 カフカの人生論』

カフカは、気弱ではあるが、書くことだけは生涯続け、性格は基本的に優しく、穏やかだった。孤独ではあったが、友人もいたし、恐怖心などから直前になっての婚約破棄は繰り返されたものの、恋人もいた。一方で、彼は心底の医者嫌いで、医者に関することになると、言葉はずいぶんと辛辣なものとなった。たとえば、恋人だったフェリーチェ・バウアーには、手紙で次のように書いている。

有名な医者の言葉などぼくは信じないのです。信じるのは、医者が自分はなにも知らないと言うときだけです。(手紙)

– フランツ・カフカ 手紙

医者の言葉は信じない、信じることができるのは、自分がなにも知らない、と言うときだ、と強烈な皮肉を込めて批判的に語っている。カフカが医師に求めることは、人間的な思いやりと、自らの職業に関する健全な懐疑精神だった。また、別の女性や友人への手紙のなかでも、医学に対する不信感を書き綴っている。

医学がやっていることは、苦痛でもって苦痛を手当てしているだけじゃないですか。それを「病気と闘った」なんて言っているんです。(手紙)

あるのはたった一つの病気だけ、それだけなんだ。そしてこの一つの病気を、医学はただ闇雲に狩り立てる。果てしない森また森へと、一匹の獣をひたすら追い立てるが如くに。(手紙)

– フランツ・カフカ 手紙

苦痛でもって苦痛を手当てしている、というのは、対症療法批判と言ってもいいかもしれない。この対症療法的な行為を、「病気と闘った」と表現していることに、彼は疑問を抱いていた。カフカが、憎悪に近いほど、医者を嫌っていた理由の一つとして、西洋医学という世界観自体に対する不信感があった。文学研究者のライナー・シュタッハは、カフカに関する評伝のなかで次のように解説している。

学問的医療に対する楽観主義が世に広まっている。その単一原因説に皆しがみついてもいる。当時のそんな風潮を、カフカは偏狭なものと捉えていた。彼はその人生で多くの医師に診察を受けたが、彼らの言うことは往々にして矛盾する。医師がまとう権威性と、学問的医学がもたらす知識の細分化やさまざまな面での不安定さとは、奇怪なほどに不釣り合いだというカフカの認識は、そのことでさらに強まった。

– ライナー・シュタッハ『この人、カフカ? ひとりの作家の99の素顔』

人間の症状というのは、様々な原因の複合的な要素によって立ち現れる。しかし、たった一つの対象に原因を押し付け、その原因を取り除けば(「苦痛でもって苦痛を手当て」すれば)治ったと考える医学的な発想を、カフカは「偏狭」だと考えていた。

これは近代合理主義の批判にも繋がり得るだろうし、カフカが人生を通して抱き続けた医学に対する問題意識は、彼が文学の分野で不条理な世界に辿り着いたことと、決して無関係ではないと僕は思う。

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