銃社会化する日本

銃社会化する日本

追い詰められた小さな箱で、互いに憎み合い、あるいは共依存の末に、どちらかが殺す。こういう事件は今後も増えていくだろう。電車の飛び込みでもそうだが、「一人で死ね」という言説が感情論ではなく合理的な説得力を持つ時代が到来すれば、合法的な安楽死までカウントダウンだ。他人を巻き添えにするくらいなら、「一人で死ね」。一人で死ぬのが怖いなら、私が殺してやろう、という事件もあったが、あの「私」を、公権力が代理で行う、という方向に進むことは容易に想像がつく。精神科に早めに連れていけ、ということが対策だと考えているうちは、結局なにひとつ根本的な解決には繋がらない。単に薬漬けになって抜けられない患者を増やすだけだ。アメリカもすでにそのどつぼにはまっている(参照 : 『スエロは洞窟で暮らすことにした』)。

不信感、というのは今後の大きなキーワードになる。“予兆”に対する不信感。あのときの笑み、あのときの冗談の内容、あのときの眼差し、服装、反応、すべてが、“予兆”に見える。好きだから殺したかった、という事件も増えるだろう。青春小説を鞄に詰め込んで敬愛するアーティストを殺すファンも出てくるかもしれない。「好きだから殺したかった」という報道を目にするたびに、相手の“予兆”に敏感になる。一部の人間を魅惑し、神格化するかもしれないが、多くは避ける。ますます“予兆”に敏感になって避ける傾向になり、壁を築き、壁の内側でぐっと守りに入る。外の世界では、危うい連中が徘徊し、ときおり殺し合い、ときおり壁を越えようとする。「一人で死ね」と誰かが叫ぶ。

不信感によって生じるのは、監視と武装だ。もし社会(我々)の問題として捉え、些細なことであったとしても穏やかな暮らしを再生しようとするのではなく(先の時代にはそのことを怠った)、その都度Aの狂気のみに還元すれば、すなわち、Aという“症状”の生み出された”状態”を少しでも改善しようとするのではなく、Aさえ取り除けば安心だ、と考えるなら、光によって生じた影はさらに増幅するだろう(参照 : アンデルセン『影』)。根本が変わっていないのだから、次々と影は生まれ、膨れ上がる。しかし、相変わらずAを原因とすれば、Aは増殖し、不信は膨れ、厳重な超監視社会と個々の武装化に繋がっていく。今はまだ誰も日本が銃社会化するなどとは思ってもいない。また、日本で国家的な自殺幇助としての安楽死政策が始まるとも思ってはいないかもしれない。しかし、「そうするしかなくないですか?」という社会に向かって着実に進んでいる。